時間がない、というけれど

 時間がない。
 いつもそれを言い訳にしている。
 サイトの更新をしないのも、同人誌を書かないのも、散画の話やら設定を書かないのも、パソコンの中身が割とぐちゃぐちゃでいっぱいいっぱいなのも部屋が荒れ放題なのも、全部全部時間がないからだって言い訳をしている。

 時間がない。
 確かに時間の有り余っていた学生時代に比べれば、時間がないのは当たり前だろう。
 あのころに比べれば、世の中ほとんどの人間は時間がないに決まっている。
 だが、本当に僕には時間がないのだろうか?
 大体、時間がないって言っても誰と比べて時間がないなんて言っているのだろう。
 時間だって距離だって速さだって、所詮は相対的なものでしかあり得ないわけだから、僕が誰かと比べて時間がないといっているのは明らかである。
 じゃあそれは、昔の自分なのだろうか。同世代の人間達だろうか。勤め先の人々だろうか。それとももっと全般的に、僕のイデアの中にある大人というものに比べてなんだろうか?
 そう思ってみて気が付いた。
 本当は時間がないのではなくて、心の余裕がないだけなのだ。
 大抵の大人に比べれば僕には時間があるのだ。
 社会人といえどまだ同級生の大半は大学生っていう年齢で、週休五日、平日だって7時には絶対部屋にいる。
 どこが時間がないって言うのだろう。
 アルバイトに勤しんでいる大学生よりよっぽど時間はあるじゃないか。
 僕より年上の人って言うのは、要するにそれだけで残り時間が少ないってことになる。
 平均寿命から考えて、同世代の人間だって半分は僕より残り時間は少ない。
 要するに、時間がない、ツールがない、なんてそれは全て言い訳なのだ。
 時間なんて本当はあり余っているのだ。
 何もしていない時間はいくらでも存在する。
 どれだけ忙しく見える人だって、自分の時間をひねり出すことのできる人はたくさんいる。
 ましてや僕は(自称)文書きなんだから、紙と鉛筆さえあれば、いや、今は携帯電話なんて便利なツールがあるのだから、道を歩いていたって食事の注文を待っていたって、創作は可能なのだ。
 それを判っていながら、時間がないと騒いでいる。
 あれをしよう、これをしたい、そう思って口に出しながらも、していることはただ騒いで焦って無意味に時間を消費しているだけ。
 騒ぐくらいならその時間を有効に使えばいい。
 それを判っていてしないなんて、なんて愚かで、無駄が好きなんだろう、僕は。