平和無防備都市宣言
ありえねえ。
この正気とは思えない文言が何かっていうと、僕の勤め先のある枚方市で(一部の)市民が条例を作ろうと騒いでるそれなのだ。
戦争のない世の中にしようとか自衛隊を派遣するなとか、おおよそ大人とは思えない理論を振りかざして。
そんなことは理想論であっておよそ現実にはそぐわないし、そもそも平和と無防備ってのは全く別のもので両立するとは言い難い。
そりゃもちろん、世界中の人間が皆平和に争いごともなくにこにこしながら人生を終わるようなヌルいプログラムでできてるんだってのなら話は別だけれど。
どんな世界にだって理想はある。
だが、それに拘泥していては世の中は進まないのが現実だ。
常に理想を振りかざす人は現実に置いて行かれる。
理想を振りかざすだけの聖人なんて今の世の中単なる役立たずで煙たいだけで結局大成できない。
それがオアシス的役割を果たし必要とされていることまでは否定しないが、それはその人が死んでからというパターンの方が多いのではないだろうか。
学問の徒である大学の教授であれ人を救うための医者であれ、それを極めようと思えば他人と覇権を競うことは必要になる*1。
無防備というのは要するに、抵抗の手段を何一つ持たないと言うことだ。
右の頬をぶたれたら左の頬も差し出しなさいなんてことを実践したら、確かに勢いに任せてぶった人間はやる気を殺がれてやめてくれるかもしれない。
だが、諸手をあげて降参ですと言えば誰もが攻撃の手を止めてくれるわけではない。
大抵の悪人は、いや、悪人でなくともメンツとかそう言うもののために左の頬もぶん殴ってそれだけでは足りずにエスカレートすることだって充分考えられる。
泣いて許しを乞うたって殺されるときは殺されるし、もっと酷い目に遭うかもしれない。
そんなもの、子供の行動を見ていてもわかると思う。
歯止めがなければ、抵抗されないとわかっていれば、人間なんてつけあがることしかしない。
表題のような主張は要するに、痴漢にあったら足を開けといっているのとさほど変わらない。
しかも悪いことに市単位で。
無防備、なんて馬鹿なことをのたまわっている人間は争ったことがないのだろうか。
人を憎んだことも恨んだこともないのだろうか。もしくは己の無力に嘆いたことも。
それとも争うのに飽きて枯れた理想を振りかざすことにしたのだろうか。
普通に生きていたって気にくわないことなど沢山ある。
道行くおじさんの歩きたばこに腹が立つとか電車の中でいちゃいちゃしてるカップルが鬱陶しいとか隣人の飼う犬がうるさいとか子供が言うことを聞かないとか友達に話を聞いてもらえなかったとか。
まあ理由は何でも良いのだけれど、生まれてこのかた腹を立てた(もしくはむっとした)経験のない人間なんてどこにもいないと思うのだ。
で、まあたかだかそんなことで相手を殺してしまう人間もいるわけで。
戦争も規模が違うだけで、そう変わらないんではないだろうか。
戦争なんて元をたどれば意見の押しつけか考えの相違か欲の行き着く先のどれかに帰結すると思う*2。
一対一なら折り合いをつけるか無視すればいい話なのに、権力があり配下があり守るべき者がいるし国があるという大義名分があるし、その上メンツもあるから後には引けない。
そもそも支配者側からしてみれば異分子は排除してしまった方がいい。
生かしておけば生産力にはなるだろうが、それ以上に面倒だ。飯も食うし服も住むところも必要。なによりいつ反抗してくるかわかったものじゃない。
それに比べて死人はものをいわない。抵抗もしないし土に埋めてやれば肥やしにでもなるだろう。
最近はあまり大量虐殺なんてすると世界が黙っちゃいないけれど、そんなものは権力さえあればある程度はねじ伏せられるものだ。
抵抗さえしなければもしかすると命だけは助けてくれるかもしれないが、言い様に搾取されるのは目に見えている。
抵抗しないのを良いことに殺し尽くされるかもしれないけれど。
草花に毒や棘があることを責める人間はいないだろう。
それは彼らの自衛手段だ。
それを取り上げられてしまえば、彼らは人の庇護の元、温室のなかで農薬まみれになって過ごすしかない。踏みにじられればそれまでだ。
品種改良、といえば聞こえは良いがそれは人の手に余る、もしくは気に入らないものを人が好むものにねじ曲げていくということだ。
平和無防備って結局、そういうことではないだろうか。