我が名3
(id:yamikage:20040115の続き)
本当は、名前にもいろいろと種類がある。
「氏し・うじ」、「姓せい」、「名」、「諱いみな」、「字あざな」、「号ごう」、、etc........
他にもいろいろあるのだろうが、よく知らないところまで論じないのが僕の主義なので、これ以外については言及しない。
最初の三つはよく使われるので大体の見当がつくだろう。
あえて言うなら、日本で言われる「名」は名誉、功績などといった意味がつくことがよくある。
諱(忌み名)とは、本当の名前のことだ。
もともとは諱は親兄弟かごく親しい友人くらいしか知らず、呼ぶこともない、その人の根元。
諱を教えると言うことは本当に重大なことだった。
昔ばなしで本当の名を呼ばれたあやかしが正体を顕さざるを得なくなるように、それは軽々しく教え、呼ばれるべきものではなかったのだ。
それはその人が、この世界に存在するための基盤なのだから。
対して、字というのは他人に呼ばれるための名前、通称のようなものである。
あだ名とは違うが、まあそういうモノの一環のように考えても構わないように思う。
これは呼ばれるためにある名前だ。
そして、号というのはある一定の世界に限って使われる、ちょっと特殊な名前……ということになるだろうか。
芸能人なら芸名、文人ならペンネーム、俳句なら俳号、そういったもののことだ。
僕が長らく使っているペンネーム兼ハンドルネームも、広く浅く言えば号の一種だ。
諱とも字とも違う、日常から少し間を置き別の思考に切り替えるために己を定義する名前。
それは周りの言葉によって決まっていくものもあるし、こういうものになりたいだとか、こういうものになろうだとか、そういったささやかな決心をもとに決定されたりもする。
ただ、僕が表記だけとはいえ名を変えられた言うことは、要するに、(それが幾ら都合とはいえ、)僕は号を下されたのだろう、国から。
職場にいるときはこういうものであれ、と定義されたわけだ。
それは、はっきり言って非常に腹立たしい。
僕は生まれて約二週間、名前がなかった。
たいていの子供はそこまで長い期間名前の付かないという事はないように思うが、どうなのだろう。
とりあえず、その間僕にあるのは“赤ん坊”という一般称。
……まぁ、女の赤子だったわけだからちゃん付けくらいはしてくれたかもしれないが。
それがどういう状態なのかというと……『誰でもない』状態なのだ(これは弟が生まれたときの事を思い出して言っているわけだが)。
その赤子は自分から見れば兄弟であり、親から見れば子供であり、祖母から見れば孫だ。
だが、じゃあその子は誰なの? と問われ「これは弟/子供/孫です」と答えても、それは本当の意味での答えにはならないのだ。
相対的な答えでは多くの返事を検討しなければ個々を特定することなどできない。
個々を特定するために相手は名を問うのだ。
相手の要望を満たさぬ答えに何の意味があろう。
人が名のないものを認識するのは難しい。
だからこそ、人は全てに名を付ける。
新しいものができれば、新しいものを発見すれば、それに名を付けることができるというのは、実は権利ではなく、義務だ。
そんな理由で名前がついた──訳ではなく、親は親としての多大なる愛情を(多分)もって幸を願い、僕に名を与えてくれたのであろうと思う。
僕は名を付けられた瞬間、家族と自分と世界に対し、こういう名をもったこういうものです、と定義されたのだ。
もしくは、これはこういう名を持つものです、というふうに。
前のように家でたとえるなら、家の壁を作ってもらったのだ。
もう一つの名、今ここで使っている闇の影・翼という名は、僕が自身を再定義したものだ。
人から見れば割と珍妙な名であるというのは認識のうちだが、親がこうあれかしと願った名とは違い、自身でこうあるべしとして誓った名だ。
家で言うなら、部屋の中身を自分のルールに合わせて改装しているのと同じだ。
だが、最後の名は違う。
この名は冒涜に等しい、と、そう思う。
親に着けられた名を気に入ってはいないが、変えようとは思わない程度には愛着を持っている。
決まりだからと言うだけで変えられると言うことは、無理矢理新しい名をつけられるのと変わりないのだ。
とりあえず今は何を言っても無駄らしいので大人しくしているしかないのだが。
結局の所、僕には3つほど名前があることになる。
仕事をしているときは無理矢理与えられた名前であり、その他活動している時間のほとんどを趣味に興ずる時間にあてているので僕が勝手に決めた名で活動していることになる。
と、いうことは。
折角親から貰った名前は、ほとんど出番がないと言うことになる。
うん、まぁ……なんというか。
寝てるときとゴハン食べてるときと風呂入ってる時とゴロゴロしてる時位なんでしょうな。
僕が元々の僕である時間というのは。
更新遅れちゃいました。
面白げな文を書くよりはこういうものを書いている方が気が楽で好きなのですが、きっと読んでいる方は面白くないんだろうな〜、と思ってみたりよく解ってるじゃないか)。