それは恐怖かもしれない

 その広場には電灯が立っている。
 アスファルト敷の地面、斜めに引かれた白線、意味もなくいくつも配置されている芝生の小さな丘、そして電灯。
 たかだか100坪弱のその土地には、実に13本もの電灯が林立している。
 だからその場所は夜中であろうとたとえ雨が降っていようと、常に煌々と輝いている。
 どんな目的をもってデザインされたのかは知らないが、影一つできないその場所はまるで狂気のようだ。
 潔癖性の人間が徹底的に暗闇を排除しようとしているかのような徹底ぶりは、この世に闇など必要ないと主張している。
 
 視覚や知識、清浄さや希望はしばしば光にたとえられる。
 それはヒトが光を好ましいモノとして見ているからだ。
 だが、本当に光というのは好ましいばかりのモノだろうか。
 視覚的に、ではなく観念的に──見えすぎる、というのは時に人を不幸にする。
 知識もありすぎれば時に理解を得られず孤立を招く。
 美しく澄んでばかりいる世界は殆どの楽をしたい人間には住み難い。
 希望は──希望は、相対的なものだ。何の不平も不満もない満ち足りた世界に、希望などというものはありはしない。
 それでも我々は過剰なまでに光を求める。
 理由は簡単だ。それは単に怖れているからだ。見えないと言う不確かさ、他者より愚かであるという事実、理不尽な他者からの仕打ち、選択肢のない逼迫した状況、それら闇に通じる全てのものを、我々は怖れているからだ。
 世の中は光に満ちてなんかいない。明るいところも暗いところもない交ぜになって、暗い方に傾きながらぼんやりしている。
 知れば知るほどはっきりしてくるその実感を少しでも遠ざけようとして、ひとは光を求める。
 たとえ見せかけでも明るければ安心なのだ。
 あの広場はそいういう、光を求めざるを得ないヒトの恐怖──もしくは自分のところだけでも構わないから暗く汚れた部分を排除し、明るく美しいところだけを見ていたいという願望──を抱え込んで具現化している。
 それは、短絡的に今が楽しければいいと思ってしまう心に似ていると思う。